八丁堀の亀島橋『銀座 柳4世』『芭蕉の句碑』『伊能忠敬』『写楽』

大変な事になってしまった
仕事で新川へ行った時、ちょっと写真を写しただけなのです。。。

銀座の柳 4世←2005年の銀座の柳 4世と比較すると大きくなったでしょ~

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中央区民ニース

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亀島橋を新川に向かって渡る右側の橋詰に、にぎやかな碑が建立されている。
まず、銀座の四世柳。これは昨年亡くなった勝又康雄氏の寄贈。

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さらに芭蕉句碑。元禄6年(1693)に八丁堀にて詠んだもの。「菊の花 咲くや石屋の 石の間芭蕉50歳の作品という。
  さらに東洲斎写楽が八丁堀に住んでいたとの考証も示されている。この説は八丁堀の元町会長、山下登さんの説でもあり、柳も山下さんと親しかった勝又さんから寄贈されたもの。
  写真については「江戸時代の浮世絵師。天明から寛政年間頃の人」として次のように記されている。
  1794年(寛政5年)5月から翌95年の正月までの10ヶ月間で、役者絵、相撲絵の版画約140点を製作した。
  写楽は、それまでの常識を覆す雲母揩りの豪華な背景と、リアルな表情と容態を描き、日本を代表する浮世絵師の1人として世界に知られている。
  写楽の生涯や正体は不明な点が遠かったが、幕末の考証者、斎藤月琴は「増稀浮世絵類考」(1844年)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。
  さらに、1997年(平成9年)埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に済み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が1820年(文政3年)3月7日に58歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衛が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた。

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伊能忠敬――1745(延享2年)~1818(文政元年)。近代的日本地図作成の基礎を築いた人。下総国(千葉県佐原市)の名主を務めていたが、52歳のときに江戸に出て西洋天文学の勉強を始めた。56歳から72歳にわたり、延べ3737日、約4万キロに及ぶ徒歩の日本初全国測量を行った。その成果を編纂した「日本〔編注:大日本が正しい〕日本沿海輿地全図・実測録」はわが国の発展に大きく貢献し、海外でも高く評価された。1814年(文化11年)、深川の隠宅を八丁堀亀島町に移した忠敬は、地図作成を続け、4年後この地で没した

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中央区郷土史同好会

どう勉強になった  

八丁堀・亀島橋、捕り物に出てくるでしょ~

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亀島橋から佃方面

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